1:2023/07/14(金) 08:23:24.595 ID:tSCA5+tg0
安倍晋三元首相が暗殺されて早くも1年が経過した。第二次政権発足直後から野党の大バッシングを受けたにもかかわらず、憲政史上最長となった安倍政権の絶大な政治基盤の背景はなんだったのか。
まず考えられるのが保守共闘の象徴となったことだ。
安倍元首相は右翼イデオロギーを持つ「思想保守」から絶大な支持を受けてきたことは皆さんもご承知の通りだ。
いっぽう自民党は戦後の結党の理念こそ自主憲法制定だったが、安定基盤を築くと右翼思想色は薄まった。安倍氏が「戦後レジウム」と呼んだ護憲ハト派が支配的地位を占め、政治の主目的が政治家の田舎へハコモノを作ったり、族議員が自分の支持基盤の産業へ利益を誘導することありきとなった。いわゆる「生活保守」である。
こうした利権の取り合いによって派閥抗争が起きたし、支持者は土建関係者など利益誘導でメシを食う人間が内心は無思想でも自分の生活のために保守を支持するいびつで歪んだ政治状況が続いた。
時は流れ、ロッキード事件や金丸事件など自民党長期政権の金権腐敗が露呈。冷戦崩壊によって社会主義が台頭する脅威も消えると、自民党の利権政治への厳しい世論の目が向けられるようになった。
小泉純一郎元首相は「自民党をぶっ壊す」を掲げ、郵政族や道路族の既得権益を破壊することで無党派(B層)の熱烈支持を受けたが、それでも根本的に自民党の利権構造体質は断ち切ることはできず、世論が政権交代を選んだのが安倍氏が言った「悪夢の民主党政権の3年間」である。
もちろん実際には、民主党内にも「日教組のドン」輿石東のような大物族議員がいたり、小沢一派による派閥抗争など、劣化自民党にすぎなかったので、たったの3年で終わったのは言うまでもない。
しかしこれは保守派にとっては脅威だった。2009年の民主党発足時点では、近年の選挙でまれにみる投票率の高さのもと民主党圧勝、自民党は大敗。この状態を維持して5年、10年続けば、いくら大所帯だった自民党もかっての社会党のようにあっけなく瓦解して消え失せるリスクがあったのだ。実際、全特や農協など一部の業界団体は昭和以来一貫した自民党支持を裏切って民主党側に離反していた。政権の地位にいて既得権益を持っていることこそが党の存在意義であった自民党からその価値が失せれば、誰もが離れてしまうのは当然のことだった。
この危機感のもとで保守共闘が構築されたのである。自民党は結党の理念に立ち返り保守思想を鮮明にした。民主党はいわば「左の政権」であるので、右からカウンターを展開することで存在価値を明白にしたのだ。例えば尖閣諸島問題、李明博韓国大統領(当時)の竹島上陸など、右翼層の強烈な関心のあるトピックスがあれば、当時の自民党は猛反発を強め、党所属大物議員は口を揃えて民主党政権を批判した。権力も既得権も失い分配する利権のなくなった自民党は、保守思想をアピールし、政権奪還後にそれを実行することを期待させることで当時の反政権の世論を集めたのだ。
こうした思想保守と生活保守の糾合のシンボルが安倍晋三氏再登板論だった。2012年自民党総裁選勝利前からのチャンネル桜の「安倍救国内閣」キャンペーンしかり、安倍氏期待の声は保守界には広くあった。安倍氏は戦後レジウムの脱却、憲法改正を第一に掲げる思想保守であり、同時に大物政治家の両親を持つ世襲のサラブレッド政治家である。思想や理念ではなくいかに集団の大将であるかという「村社会」の論理がすべての生活保守にとっても、安倍氏はリーダーにふさわしい存在だった。
そして2012年の政権交代後も、安倍氏は「思想保守」路線をゆるめることはなかったことも大きかった。野党時代だから好き勝手に現実離れしたセンセーショナルなことを訴えるのではなく、政権奪還後も国防や伝統文化重視など、「右の理想」を唱えた。それゆえに革新勢力は危機感を持ち、立共共闘が今に続いているが、決して革新野党の躍進を許さなかったのは安倍路線は「新保守主義」であるからだ。
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